HSPの人生に安らぎを

子供の頃から、どうにかちゃんとした人になりたくて空気を読みつつ生きてきたら鬱病になりました。夫も鬱病で退職し私一人の時間が激減。私のSOSは夫には届かず息が詰まる生活を強いられている54歳の秋、何かに導かれるようにHSPを知りました。長い間自分の頭がおかしいと思っていたので少し救われたような気がしましたが、それを知ったところで状況は何も変わりません。どういうことが辛くて苦しいのかを記録することで吐き出し、どうしたら楽になるのかを考えていきたいと思います。

荒れていた中学校でアオハル!

ボンヤリしてても歳はとるw
私は中学生になりました。
新品の制服、靴、バッグ………ウキウキしました。

小学生の頃は私服で学校に行っていました。
学校に着ていく服が自分の中で「イケてる」か「イケてない」かでテンションの上下があったので、制服があるのはありがたかったです。
私は、誰に見せるわけでも褒められたいわけでもなく、自分が「イケてる!」と思えればそれで満足なんです。
社会人になってからも、着ていく服が決まらないと朝から泣きたくなりました。
最近は無くなりましたが数年前まで「着ていく服が決まらなくて焦っている」という夢を見て、朝からヘトヘトに疲れていたことがあります。
制服ならみんな一緒! 悩まなくてもいい!

友達のAちゃん、Bちゃん、私の3人はそれぞれ違うクラスになりましたが、同じ部活動をすることになりました。
たまたまそうなったのか、話し合って決めたのかは忘れましたw
私たちが選んだのは体操部です。
どうして体操部にしたのか?
わかりませんwww
いつの日かAちゃん、Bちゃんに会うことがあったら聞いてみたいです。
私は音楽系の部活をしたかったのですが吹奏楽部も合唱部もなかったのです。
体操部の部員はそんなに多くなく優しい先輩ばかり。
顧問の先生は殆ど来なかったので、適当に練習してはお喋りをしていた記憶があります。
これで、部活を理由に帰宅時間を遅らせることができました。

「中学校では定期テストがあって成績順に名前を廊下に貼り出すんだから勉強しなさい!」と母に再三言われていて、肝心の勉強に関しては憂鬱な思いしかありませんでした。
小学校ではなかった英語の授業が始まりました。
BayCityRollersが好きだったので「英語が話せるといいなぁ………」とは思いましたが、ここでも「よし!話せるようになるために勉強するぞ!」という強い決心はありませんでした。
その後、英検2級までは取りましたけど、その程度じゃ何の役にも立ちませんねw

クラスでは引き続き気配を消していましたが、少し変化もありました。
中学校ではクラスの役員、委員会、生徒会などの活動が活発になり、何かひとつでも担当しないと逆に目立ってしまうのです。
私は文句を言われないように自分でもできそうな仕事に立候補し危険を回避しました。

ダメダメな私でも人並みに男子を好きになったりしました。
BayCityRollers好きの私に、どストライクの日本人離れしたイケメンのSくんです。
シャイな子でしたが歌が上手く、校外学習の時のバス移動で歌っていた「愛のメモリー」に感激しましたwww
でも、お手伝いも勉強も積極的にできない私が「好き」だのなんだのw浮ついたことを考えているなんて親に悟られないようにしないといけないと思い、両親にはそういう話しは一切しませんでした。
自信がなくて気配を消している私が彼に話しかけることは一度もなく、ただ見ているだけの片思いでした。

Aちゃん、Bちゃんとはクラスが違っても部活が一緒だったので孤独感はありませんでした。
同じ部活でCちゃんという友達も加わり、4人でいることも増えてきました。
ヤンチャな生徒もたくさんいて「隣のクラスの〇〇が先輩にしめられた」だの「〇〇中学校に殴り込みに行った」だの日常的に聞いていました。
「不良」とか「ツッパリ」と呼ばれていましたね。
女子のスカートめくりや胸を触ってくることがあり、私もよく被害にあいました。
ごっこ感覚だったのかもしれませんが私は本当に嫌でした。
そんな生徒の相手をしなければならない先生方は、ピリピリしていて頭ごなしに叱りつけるのが日常でした。
体も声も大きな先生の生徒指導が厳しく、校則違反をしてなくても怖さを感じていました。

Bちゃんのクラスに鈴木紗理奈さん似の女の子がいました。
スラッと背が高く、ショートヘアが更に大人っぽさを際立たせていました。
その紗理奈さん(仮名)は学校に来ない日がよくありました。
紗理奈さんがBちゃんと話していた時、たまたま私もその場にいたことがありました。
ある日「今度一緒に遊ばない?」と誘われましたが断りました。
一瞬、母の顔が頭に浮かび「私が不良になったらママが悲しむ」と思ったのです。
紗理奈さんは卒業までの3年間ほとんど学校に来ませんでした。