HSPの人生に安らぎを

子供の頃から、どうにかちゃんとした人になりたくて空気を読みつつ生きてきたら鬱病になりました。夫も鬱病で退職し私一人の時間が激減。私のSOSは夫には届かず息が詰まる生活を強いられている54歳の秋、何かに導かれるようにHSPを知りました。長い間自分の頭がおかしいと思っていたので少し救われたような気がしましたが、それを知ったところで状況は何も変わりません。どういうことが辛くて苦しいのかを記録することで吐き出し、どうしたら楽になるのかを考えていきたいと思います。

父のこと

その日、私は会社のパソコンの前にいました。
夕方、滅多に鳴らない私の携帯電話に着信があったのです。
誰からかかってきたのか憶えていません。
父の友人だったか救急搬送された病院からだったか、父が倒れて緊急入院したと。

旦那、妹、弟に連絡し、すぐに病院に向かうと、そこには父の友人だという男性が2人待ってくれていました。
「カラオケで歌っている途中、急に倒れたんだよ」その時の状況を詳しく聞く間もなく、私はすぐにDr.に呼ばれ「くも膜下出血です。出血の範囲が広く手の施しようがありません」と伝えられました。

「もうこの人は目覚めない」
この姿を母に見せたいと思った。
母が憎んでいるヤツの最後の姿を。

父を病院に任せ、カラオケ店に父の車を取りに行きました。
救急搬送してくれた父の友人のカラオケ店です。
薄暗く広いフロアの奥に小さなステージがありました。
「お父さん夜勤明けでお昼過ぎにココに来てね。カレー食べてコーラ飲んでカラオケ始めて、1番を歌い終わった頃に突然倒れたんだよ」と話してくれました。
お詫びとお礼を言い父のマンションに向かいました。

離婚後、父は家を売って少しだけ都会の方に引っ越そうとしていました。
「もう友達にお別れ会もしてもろたんや」と、まだ住まいも決まってないのに自慢げに電話をしてきました。
私は「家を売るのはいいけど、万が一なにかあった時にすぐに駆けつけられないなぁ。その予算なら川の横のマンション売りに出てたよ」とダメ元で言ってみると、数日後また電話があり、私が話したマンションを購入したと報告がありました。

初めて入る父のマンション。
キッチンには自分で調理したものが鍋に少し残っていました。
物は多く、布団は敷きっぱなしでしたが部屋はそれなりに片付いていました。
カレンダーには簡単な予定を記してあり、血圧が高くて通院していたことがわかりました。
「煙草はやめていたよ」とカラオケ店の父の友人は言っていました。

書類がパンパンに入って太ったファイルが目についたので見てみると、その中に葬儀社ネットワークの共済会の会員証がありました。
今思えば偶然見つけたわけではないのかもしれません。
父は若い頃から「俺の葬式には参列者がズラーっと並ぶんや!」と豪語していました。
しっかり準備をしていたのです。

自宅に戻り母に連絡。
学校から帰ってきた次男も一緒に病院に行き父に会わせました。
次男は声もなくポロポロと涙を流していました。
母も無言で………何を思っていたのだろう?
離婚後一度も顔を合わせていなかった父と母。
50年ほど連れ添ったふたりです。

病室にいても何もできないので母を送ってから自宅へ帰りました。
深夜1時過ぎ、病院から父が亡くなったと連絡が入りました。
またすぐ病院へ行き父の顔を見たあと、父が準備していた会員証の電話番号に電話をし葬儀の手配をしました。

母を葬儀には呼ばなかったし、呼んだとしても来なかったでしょう。
父の兄2人にも連絡すると遠方から駆けつけてくれました。
父とは歳が離れているので2人とも80歳を超えていました。

見栄っ張りでエエかっこしいの父のために、私と妹と弟はそこそこ見劣りしない葬儀を出しました。
父は現役で仕事をしていたので参列者は多い方だったと思います。
父が豪語していたほどの行列になってはいませんが友人知人も次々と来てくれました。
他人に優しかった父の葬儀は参列者から嗚咽する声がもれるほどで、父の兄2人も盛大な葬儀に涙して私たち姉弟に感謝してくれました。

葬儀後、私たちは相続放棄の手続きをしました。
そして「良い葬式をありがとう」と後日手紙や写真を送ってくれた伯父たち。
後順位となる伯父たちに父の負債の話しをし相続放棄の手続きをお願いしました。
私は父の死より年老いた伯父たちの気持ちを思うと本当に辛かったです。

父が長い間ふたりの兄に隠していた借金の話を私からしなければならなかった………
伯父たちは、私の父母が離婚した本当の理由を知ったのでした。


酒と歌を愛した父はステージで歌って逝った。
アホか!
ベテラン歌手か!