HSPの人生に安らぎを

子供の頃から、どうにかちゃんとした人になりたくて空気を読みつつ生きてきたら鬱病になりました。夫も鬱病で退職し私一人の時間が激減。私のSOSは夫には届かず息が詰まる生活を強いられている54歳の秋、何かに導かれるようにHSPを知りました。長い間自分の頭がおかしいと思っていたので少し救われたような気がしましたが、それを知ったところで状況は何も変わりません。どういうことが辛くて苦しいのかを記録することで吐き出し、どうしたら楽になるのかを考えていきたいと思います。

荒れていた中学校でアオハル!

ボンヤリしてても歳はとるw
私は中学生になりました。
新品の制服、靴、バッグ………ウキウキしました。

小学生の頃は私服で学校に行っていました。
学校に着ていく服が自分の中で「イケてる」か「イケてない」かでテンションの上下があったので、制服があるのはありがたかったです。
私は、誰に見せるわけでも褒められたいわけでもなく、自分が「イケてる!」と思えればそれで満足なんです。
社会人になってからも、着ていく服が決まらないと朝から泣きたくなりました。
最近は無くなりましたが数年前まで「着ていく服が決まらなくて焦っている」という夢を見て、朝からヘトヘトに疲れていたことがあります。
制服ならみんな一緒! 悩まなくてもいい!

友達のAちゃん、Bちゃん、私の3人はそれぞれ違うクラスになりましたが、同じ部活動をすることになりました。
たまたまそうなったのか、話し合って決めたのかは忘れましたw
私たちが選んだのは体操部です。
どうして体操部にしたのか?
わかりませんwww
いつの日かAちゃん、Bちゃんに会うことがあったら聞いてみたいです。
私は音楽系の部活をしたかったのですが吹奏楽部も合唱部もなかったのです。
体操部の部員はそんなに多くなく優しい先輩ばかり。
顧問の先生は殆ど来なかったので、適当に練習してはお喋りをしていた記憶があります。
これで、部活を理由に帰宅時間を遅らせることができました。

「中学校では定期テストがあって成績順に名前を廊下に貼り出すんだから勉強しなさい!」と母に再三言われていて、肝心の勉強に関しては憂鬱な思いしかありませんでした。
小学校ではなかった英語の授業が始まりました。
BayCityRollersが好きだったので「英語が話せるといいなぁ………」とは思いましたが、ここでも「よし!話せるようになるために勉強するぞ!」という強い決心はありませんでした。
その後、英検2級までは取りましたけど、その程度じゃ何の役にも立ちませんねw

クラスでは引き続き気配を消していましたが、少し変化もありました。
中学校ではクラスの役員、委員会、生徒会などの活動が活発になり、何かひとつでも担当しないと逆に目立ってしまうのです。
私は文句を言われないように自分でもできそうな仕事に立候補し危険を回避しました。

ダメダメな私でも人並みに男子を好きになったりしました。
BayCityRollers好きの私に、どストライクの日本人離れしたイケメンのSくんです。
シャイな子でしたが歌が上手く、校外学習の時のバス移動で歌っていた「愛のメモリー」に感激しましたwww
でも、お手伝いも勉強も積極的にできない私が「好き」だのなんだのw浮ついたことを考えているなんて親に悟られないようにしないといけないと思い、両親にはそういう話しは一切しませんでした。
自信がなくて気配を消している私が彼に話しかけることは一度もなく、ただ見ているだけの片思いでした。

Aちゃん、Bちゃんとはクラスが違っても部活が一緒だったので孤独感はありませんでした。
同じ部活でCちゃんという友達も加わり、4人でいることも増えてきました。
ヤンチャな生徒もたくさんいて「隣のクラスの〇〇が先輩にしめられた」だの「〇〇中学校に殴り込みに行った」だの日常的に聞いていました。
「不良」とか「ツッパリ」と呼ばれていましたね。
女子のスカートめくりや胸を触ってくることがあり、私もよく被害にあいました。
ごっこ感覚だったのかもしれませんが私は本当に嫌でした。
そんな生徒の相手をしなければならない先生方は、ピリピリしていて頭ごなしに叱りつけるのが日常でした。
体も声も大きな先生の生徒指導が厳しく、校則違反をしてなくても怖さを感じていました。

Bちゃんのクラスに鈴木紗理奈さん似の女の子がいました。
スラッと背が高く、ショートヘアが更に大人っぽさを際立たせていました。
その紗理奈さん(仮名)は学校に来ない日がよくありました。
紗理奈さんがBちゃんと話していた時、たまたま私もその場にいたことがありました。
ある日「今度一緒に遊ばない?」と誘われましたが断りました。
一瞬、母の顔が頭に浮かび「私が不良になったらママが悲しむ」と思ったのです。
紗理奈さんは卒業までの3年間ほとんど学校に来ませんでした。

幼児期から小学生時代までの考察

勉強は嫌いだし、自分の意見はないし、言いたいことがあっても受け入れてもらえるか不安で言えないし、言ったとしてもどう思われているか不安だし………。
そんな私に大人たちが「勉強しなさい」「ハキハキ話しなさい」などと注意してきたり怒ったりしてくるのが嫌でした。
「だって、できないんだもん」
できることなら、とっくにやってますよ。
自分の意見をハッキリ言えるクラスメイト………それに比べて私はダメだ、情けない………と。

小学校を卒業する頃には、褒められると喜ぶどころか「なに調子のいいこと言ってんだ?」と素直に受け取れなくなっていました。
「私ができることなんか他の人は当たり前にできる」何なら私よりちゃんとできるんでしょ?くらいに思っていました。
自分に自信がなく「変わった子」と思われたくない私は、いつもクラスメイトの後ろからついて行き、できる限り目立たないようにしていました。

クローゼットの奥から小学生時代の通知表を探してきました。
1年生の評価は面談で親に伝えていたらしく「面談済み」というスタンプが押されていました。

2年生
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3年生
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4年生
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5年生
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6年生
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だいたい「決められたことは真面目にやる」という評価ですねw
そうなんです、自発的に何かすると目立ちますから。
心の奥を探られるのが嫌いで怖いんです。
芯が強いってのは褒め言葉ですか?
頑固なんでしょうね、たぶんwww

ここまで、幼児から小学生までのことを書いてみました。
文章にしてわかったことは「私は両親にかなり強く影響を受けて育っていた」ということです。
子供だから当たり前のことですけど、私が思っていたよりもハッキリとルーツを自覚しました。
そしてその両親に言われたことができなくて劣等感を抱いていたんです。
私のベースとなる部分は、もうこの時点で完成しています。

これから思春期に入っていきます。
私の黒歴史の始まりです。

私だけ泣くツボが違う?

私から見て、父は自分のやりたいことを素直にやる人。
母は………家族に振り回されて自分のやりたいことを素直にやれない人。
振り回される、というのは良い意味でも悪い意味でも。
なので私の思考は母に似ていると思います。
「自分のやりたいことを素直にやる」なんて憧れる~♪とか、当たり前じゃん!と思う人もいるかもしれませんが家族は迷惑したんですよ。

最近このブログを始めて、改めて両親のことを考えるようになりました。
たくさんの人が地球上にいるのにどうしてあの2人が結婚したんだろうなぁ?みたいな答えの出ないことから、毎晩のように呑み歩いていた父だったけど仕事は休まず行ってたなぁ、いつも「金がない金がない」って母は言ってたけど家族5人でよく出かけたなぁ………とか。
それで一昨日、映画を観に行ったことを思い出して母と妹と弟に聞いてみました。

私が憶えているのは「燃えよドラゴン」「エクソシスト」「タワーリング・インフェルノ」「ポセイドン・アドベンチャー
10歳前後の子供が観る映画ではないでしょ。
エクソシスト」は、ただただ怖かった!
未だにホラー映画は苦手です。
それからパニック映画、イヤですよ観たくない。
学校やデパートが火事になったらどうしよう?なんて妄想で不安になるだけですから。
胸が苦しくて泣きそうになります。
なんでしょうかね? 父のチョイスは!
当時はレイティングシステムって無かったのかなぁ?

それから男の子が主役で父親と貧乏暮らしをしていて終始暗いイメージの映画。
確か遊園地のシーンがあったような………。
母に聞いてみると「あぁ、お父さんがアル中の映画ね」と、そこまでの記憶しかないようです。
「その暗い映画ではないけど、K(弟)がえらく感動して泣いた映画があった」と、また別の映画の話しが出てきました。
「あんたトイレばっかり行っとったね」とも言っていました、ということは退屈だったんでしょうね。

この手の話しをよく憶えている妹に聞くと「私も泣いたよ、感動の2本立て『虹をわたる風船』と『ロリーポップ』だね」と、すぐに返信がありました。
弟からも返信があり「どっちも号泣したの憶えてるよ」と。
当時この暗い映画を2本連続で上映していたらしいです。
妹と弟は悲しくて号泣。
私は「男の子が主役、父親と貧乏暮らし、終始暗い、遊園地シーン」以外は何も憶えてないw(それに、妹が言うには遊園地じゃなくてサーカスだし)
興味なくてトイレばっかり行ってたらしいからね。

それから最悪だったのは東京タワーの蝋人形館。
人間そっくりの人形がいるだけでゾッとするのに、拷問されている蝋人形がいたんですよ!
もう~どう思いますか?!
せっかくの楽しいお出かけで拷問人形を見せられるなんて!
いろんな器具で拷問されている様子を何種類も。
それも蝋人形は動くし悲鳴をあげるしで私にとっては地獄でした。
もちろん大号泣しましたよ。
ところが両親や叔母たちは「あらまぁ花実が泣いてるわ」くらいの反応。
妹、弟、従妹も無反応。
怖い!それに加えて「私いちばん歳上なのに怖がって泣いちゃって恥ずかしい」という思いもあり、間違いなくトラウマになりました。

父はテレビ番組などで感動すると涙を流していました。
母はそんな父を見て「(°⊿°`)ケッ!」とバカにしていました。
私はその頃から「人前で泣くのはいけないことだ」と勝手に思い、今でも心を動かされそうな物はできるだけ避けています。
子供が主役の「誰も知らない」とか「はじめてのおつかい」みたいな物や、動物の健気な姿「ハチ公物語」とか「南極物語」みたいな物はぜったい見ません。
アニメでも同じです。
ストーリーを知らずに「まどかマギカ」を見た時は「こんな可愛い子が辛い目にあってる………」と胸が苦しくなりました。
それから戦争の物。
プライベート・ライアン」とか「火垂るの墓」「永遠の0」などなどたくさんありますが見ません。
そうそう、映画やテレビ番組だけじゃなくて妹が怒られているのを見ると悲しくて涙が出るので、別の部屋に行ったり外に出たりしました。

やっぱりコメディがいいです。
それとハッピーエンドになる物。
辛いストーリーでも最後がハッピーエンドだとわかっていれば大丈夫。
「正義は勝つ」物もいいですね。
テレビの時代劇は善悪わかりやすくて安心♪と思っていましたが「鬼平犯科帳」は悪人にも家族がいて仕方なく悪事に手を染めてしまう背景が描かれたりする回があるので安心できませんでしたw

でもHSPとわかった今、人前で泣いたっていいんだ!と思えるようになってきました。
これからも積極的には見ませんが、不意打ちに遭っても我慢せずに泣こうと思います。

とりあえず直感を信じろ!

勉強が嫌い、運動もパッとしない、ハキハキ話せない、という劣等感から注目されたくないという気持ちが生まれました。
私と反対の、勉強ができる子、運動が得意な子、積極的な子たちは、みんなキラキラしていて眩しい存在でした。

ほんの一時期でしたが、いつも一緒にいたAちゃんとBちゃんに、Iさんという子を加えた4人で遊んでいたことがありました。
Iさんはバレエを習っていました。
私もやりたいなぁと思いましたが、ピアノをやらせてもらっているので我慢しました。
多分やらせてもらったとしても続かなかったと思います。
あとあと知りましたが体型維持かなり厳しいらしいですからね。

そういえば、そろばん教室に行ったこともありました。
AちゃんとBちゃんが通ってたからwww
私が続けられるわけありませんよね、学校が終わってからも勉強するなんて。
数ヶ月でやめましたw

Iさんにはトウシューズを貸してもらったり、振り付けをしてもらい放課後の使ってない教室で踊って遊んでいました。
ある日、Iさんの家に遊びに行きました。
お父さんもお母さんも出かけていたので家の中に入れてくれたのだと思います。
他人の家は珍しいので躊躇なく入りました。
何をして遊んだのか記憶にはないですが、Iさんが「ねぇねぇ、これ見て」とマンガ本を持ってきました、いわゆる成人向けマンガですね。
確かお酒もすすめられたような記憶があります。
私は直感的にIさん宅をあとにしました。

まだ幼稚園か低学年の頃、何人かの友達と遊んでいる時に私ひとり少しの間だけはぐれてしまったことがありました。
何分間もひとりでいたわけではなく「あれ?みんなどこ行った?」キョロキョロ………くらいの時間だったと思います。
すると、どこからか現れた見知らぬ男性に「お友達こっちにいるよ」と言われついて行くと、多分その男性宅の玄関前でした。
私は直感的に走って逃げました。
友達は別の場所にいました。

それからもう少し大きくなってからですが、Aちゃん、Bちゃんと私の妹も一緒にグランドの土手に遊びに行きました。
少し離れた所に見知らぬおじさんが座っていました。
次に確認した時はおじさんが近づいてきていてAちゃんと話しをしていたので、Aちゃんの知り合いかと思いましたが私は傍に行きませんでした。
また次に確認した時にはおじさんはいなくなっていました。
そして妹の姿も見えません。
急いで探しに行くと土手横の林の入り口あたりに、妹を後ろから抱くようにして林の方に連れて行こうとしているおじさんと、私の方に両手を伸ばして泣き叫んでいる妹が見えました。
妹の名前を呼びながらそちらへ走っていくと、おじさんは妹から手を離して林の中に入って行きました。
当時、私より人見知りが激しかった妹にどうやって近づいたのか…………下半身を見せてきたそうです。
もちろんAちゃんの知り合いではありませんでした。
「直感が働いた」と今なら思えますが、子供の頃には「ただその場から離れる」という本能的なものだったと思います。
せめて妹も一緒に離れれば怖い思いをさせずに済んだのですが。

元に戻りますが、キラキラのバレリーナIさんにも直感が働いたのは何だったのか。
今更考えても答えは出ませんが「人はキラキラな部分ばかりじゃないんだよ」と当時の私に教えてあげたいです。
ま、聞かないでしょうけどねw

Iさんのことで、もうひとつ思い出しました。
Iさんと遊んでいる時、私が何気なく「ウチの朝ごはん、姉弟だけで食パン焼いて食べてから学校に行くんよ。ママは寝とるけね」と話したらしいんです。
それをIさんが自分のお母さんに話して、Iさんのお母さんが私の母に「ウチの子が花実ちゃんから聞いたんだけど~w」みたいに言ってきたそうです。
よっぽど上から言われたのか、本当のことだから恥ずかしかったのか「あんた!Iさんに、ママが朝起きんけ子供だけで朝ごはん食べるち言うたんだって?!」と、しこたま怒られました。

┐(´д`)┌ヤレヤレ
私、ホントに怒られてばっかりでしたね。

先天的意地悪と謝ったら死ぬ病という不知の病

前にも書きましたが、両親に怒られるたびに「またやってしまった………どうして私は怒られることばかりやってしまうんだろう?情けない」と思って泣いていました。
「思って」ですよ、言いません。
謝ったら死ぬ病」に冒されていますから「ごめんなさい」が言えないのです。
でもそれは小学校の中学年以降のことです。
親の言いつけを守れない(勉強をしないとか積極的にハキハキ話せないことも含む)という劣等感が常にありましたから、学年が進むにつれて何とか頑張ろうとしていたのです。

母に言わせると「怒られて泣いとるかと思ったら、すぐケロッとしてテレビ見て笑いよった」ということだったようですが、それはもっと小さい頃のことです。
その頃は反省して泣いていたのではなく「怒られているという状態」が嫌で泣いていたんでしょうね、叩かれるし。

母が私のことを「物怖じしないお喋りで言うことを聞かない野生児だった」と言うのは、幼稚園に行く前の3~4歳の頃の話しです。
いろいろなエピソードを聞かされましたが、中でも我ながら驚いた話しを書きます。
公園の入り口にあるようなポールで遊んでいた私の所に知らない男の子が近づいたのだそうです。
その時ちょうど私は手を滑らせて落ちて転びました。
すると私は、その男の子を指さして「この人が突き飛ばしたーっ!」と大泣きしたんですって。
いやいや自分が勝手に転んで他人のせいにするなんて!
何を思って男の子のせいにしたのか全くわかりませんが、この世に生まれて3年くらいしか経ってないくせに、そんなことが言えるなんて!
と、まぁ驚きましたが「私って根っから意地悪なんだわ」と自覚したことが過去に何度かありました。

ひとつは、うっかり他人の容姿のことを言って相手を傷つけたことです。
1回目は中学生の頃だったかな。
言った途端その子の目の色が変わったので「あ、やばい」と思いました。
でももうその頃すでに「謝ったら死ぬ病」に冒されていましたので、謝れませんでした。
2回目、3回目は大人になってから。
そのふたつは相手がハキハキ話す系の人たちだったので、速攻で「悪かったね!」と反撃されました。
「しまった!」と思いましたが、やっぱり謝れませんでした。

それから中学生の時、公衆電話を独り占めして後ろで順番待ちをしている女性を怒らせたこともあります。
その女性はとても急いでいる様子でした、わかってました。
友達とどうでもいい話しを長々と続けていると、女性は怒って走り去って行きました。
どうして電話を譲らなかったのか理由はわかりません。
当時の自分に聞きたいくらいです。

私、どうして謝れないのでしょうか?
これぞ未だに苦しんでいる「根拠のないプライド」でしょうか?
自分が傷つけられたら盛大に凹むくせに自分は謝らない。
普段ちょっと手と手がぶつかっちゃって「あ、ゴメン」とか「間違えましたゴメンナサイ」なら言えるのですが、相手を怒らせたり迷惑をかけたりと事が重大になればなるほど謝れないのです。

ん? あれ?
そういえば私の両親の「ごめんなさい」聞いたことないなぁ。
まさか両親も「謝ったら死ぬ病」に冒されていたのかしら?
そうだそうだ!「おはよう」「おやすみなさい」「ありがとう」「ごめんなさい」って言い合う家庭ではなかったです。

うわ~!
やっぱり文章にまとめるってすごいわ!
ちょっと心がざわついて苦しくなってきました。
この話題はこれでやめます。

忘れられない2つのストレス

きっかけは忘れましたが、小学5~6年生頃から洋楽を聴くようになりました。
父のレコードにはなかった洋楽ポップス&ロックです。
いちばん好きなのはBayCityRollersでした。
QUEENABBACarpentersオリビア・ニュートン・ジョンスティービー・ワンダー…………
何を歌ってるかサッパリわからないけどカッコイイ!
そんな曲を聴いているクラスメイトがいたかもしれませんが、情報交換をするような私ではなかったので自分ひとりで楽しんでいました。

父がラジカセを持っていたのでラジオから入ったのではないかと考えますが、全く記憶にございませんw
父はレコードなどと同じく、ラジカセも自由に使わせてくれました。
自分の声を録音して聞いてみて「私ってこんな変な声なんだ!嫌だー!」とショックを受けたのはこの頃です。

(ああ~こうして子供の頃のことを思い出して文章にすると、私は父の影響もかなり受けてるんだなぁと認識するわ~)

BayCityRollersが大好きで、少ないお小遣いを貯めてLPレコードやROCK SHOWという雑誌を買ったり、タータンチェックのシャツを買ってもらったりしました。
それからエアチェック
当時「ラジオたんぱ」で「それ行け!ベイシティローラーズ」という番組をやっているのを新聞のラテ欄で発見し、必死で周波数を合わせ毎度毎度すごいノイズの中から聞こえてくる音を一生懸命拾いました。
当時BayCityRollersはすごい人気で、初来日の空港での熱狂的なファンやライブで失神するファンの様子がニュースになっていました。

隣町の市民会館でBayCityRollersのフィルムコンサートをやるということを聞きつけ「ぜったいに行きたい!けど、ママにお願いするのイヤだなぁ」と悩んだことがあります。
「隣町でBayCityRollersのフィルムコンサートがあるんだけど行ってもいい?」と言うだけなのに、私はなかなか言い出せませんでした。
「本来やるべき勉強をしないくせにフィルムコンサートに行きたいなんて虫のいい事は言いにくい」という考えからです。
勉強嫌いで頑張れない劣等感と罪悪感はいつもありました。
悩んでいるうちにどんどん開催日が迫ってくるので追い詰められましたが、母の機嫌の良さそうな時にお願いしてみると意外とあっさりOKをもらえました。

当日はAちゃん、Bちゃんと一緒に行った記憶があります。
会場は私たちよりお姉さまな女性だらけ。
モニターに映し出されたメンバーたちの歌声と演奏の大きな音に感激しました。
お姉さまがたキャーキャー黄色い声をあげています。
コンサートを撮影したフィルムを上映するイベントですよ?
それなのに、ヒートアップしたお姉さまがたが前方のステージ下に押し寄せて行きました。
ニュースで熱狂的なファンの様子は知っていましたが、フィルムにまで向かって走っていくとは!
私は驚いてスーッと冷めてしまいました。

でも、フィルム鑑賞が終わるとプレゼント抽選会があり、ラッキーなことにポスターが当たったのでテンションがまた上がりました。
終了後トイレに行くと、お姉さまがたの視線を感じました。
私がポスターを持っていたからでしょう。
クラスメイトからの視線とは明らかに違う、痛みを感じるものでした。
私のテンションは短時間で上がって下がって上がって結局下がりました。
いつも不機嫌な母にOKをもらうまでのストレス、楽しみにしていたイベントで受けたストレスは、この歳になっても忘れられません。

こう見えて音楽が好きなんです

父が音楽好きだったので家にはレコードやカセットテープがたくさんありました。
クラシック、童謡、ムード歌謡、ラテン音楽、外国のポピュラーソング、グループサウンズなどなど。
父はそれらを自由に触らせてくれました。
その中から気に入った曲をかけ、妹と一緒に歌ったり本を読みながら聴いたりしていました。

近所のショッピングセンター内にカワイ音楽教室が入っていました。
通りかかるたびにガラス張りの教室の中でピアノを弾いているのが見えて「私もやりたい!」と親に頼みました。
10歳の時でした。
何故か妹も一緒に通うことになりました。
週1回のレッスンで月謝は5,000円×2人分。
ピアノの善し悪しなどわからないので普通の黒いアップライトで問題なかったのに、エエかっこしいの父はインテリアピアノとか家具調ピアノと言われる茶色い木目調のモデルを買ってくれました。
父が毎晩のように呑み歩いていたので、いつも「金がない」と不機嫌だった母が「パパがあんな高いのにしたんよ」と苦々しい口調で言っていた記憶があります。

レッスンを始めてみると練習曲ばかりで面白くなかったです。
隣の部屋のエレクトーン教室からは知っている曲(ポピュラーミュージック)が聞こえてきて「あっちの方が良かったな」と思いましたが、ピアノに大金をかけてくれたのを知っていたので口が裂けても言えません。
でもピアノは個人レッスン、エレクトーンはグループレッスンだったので「ピアノで良かった」と思い直しました。
学校にはもっと小さい頃からピアノを習っている子がいましたが、ほぼヤマハ音楽教室に通っていました。
「発表会や昇級テストが頻繁にあって厳しい」と聞いたので「カワイで良かった」とホッとしました。
カワイにもグレードテストというものがありました。
先生から「グレードテストやりますよ」と何度か聞いたことはありましたが結局テストも発表会も一度もありませんでした。
こんな感じで自分がやりたいと言って始めたピアノも、勉強や運動と同じく「頑張って上手くなろう」という気は全くありませんでした。

そんな私でも合唱の学校代表には立候補しました。
歌は好きだし、エレクトーン教室の数倍の人数だから目立たないし、放課後練習で帰宅を遅らせることができるし、合唱コンクールは平日開催なので、その日の授業はほぼ受けず遠征するからです。
合唱メンバーになるには毎年オーディション的なものがありました。
みんなが見ている中、ひとりひとり順番に前に出て課題曲を歌うのです。
とても緊張しましたが、上手い下手は関係なく音程を外さなければ合格になりました。
私も、めでたく4年生から6年生の3回ともコンクールに出場できました。
結果は全く憶えていません。
入賞しようがしまいが私には関係ない、というか私には結果は重要ではなかったからです。

小学校も高学年になるとクラスメイトたちはTVドラマを観るようになり、学校でもその話しで盛り上がっていました。
私はというと、子供向けのお笑いバラエティ番組やアニメなどを観ていたのでクラスメイトたちの話しはわからず「みんな大人っぽいなぁ」と思っていました。
小学校には「朝の会」ってのがありますよね。
1時限目の授業の前に朝の挨拶をして、今日の予定、係からの連絡、先生からの話しなどするヤツです。
私のクラスではその中に「朝の歌」という時間が設けられていました。
係の生徒が毎月歌を決めて模造紙に歌詞を書いてくれます。
「朝の歌」の時間になると、その模造紙がバッと広げられ、それを見ながらみんなで歌うのです。

ある時の「朝の歌」は「俺たちの旅」でした。
聞けばTVドラマの主題歌とのこと。
係の生徒の合図でみんなが歌い始めました。
♪夢の~坂道は~木の葉~模様の石~だた~み、まばゆく白い~な~が~い~壁~♪
( ºΔº )「なんや、この歌は!」
「朝の歌」は伴奏なしのアカペラです。
♪足跡も~影も~残~さ~ないで~、たど~りつけない山~の中へ~♪
(;´Д`)ゲロゲロ「ううっ!気持ち悪い!」
(注:「俺たちの旅」という歌が気持ち悪いのではありません)
ダラダラユラユラした音の連続攻撃は1ヶ月続き、私はこの歌が嫌いになりました。


のちのち中村雅俊さんの「俺たちの旅」を聴きました。
ドラマチックな素敵な歌でした。